『産みたい』という思い ~女は子宮で生きている~
「帝王切開」は、英語で、a Caesarean operation 。
クレオパトラとのロマンス、あるいは「ブルータス、お前もか」で有名なローマ帝王シーザーがこの方法で産まれたことから、こう呼ばれるようになりました。
医療といってもまだまだ原始レベルだった昔のこと、シーザーの母親が生きながらえたかどうかは分かりませんが、つい先日も、南米の山奥で、突然産気づいた母親が難産の我が子を救うため、強い酒三杯をあおって、自ら包丁で下腹部を切開、母子ともども助かったというニュースを知りました。
「母は強し」と言うけれど、とっさにそこまで出来るものなのか。
薬も器械もない所で腹部を切開して、母子ともに命拾いするものなのか。
私には信じがたい話でしたが、最近、自分のお腹の出方を見ていると、決して無理無謀ではないと納得行くようになりました。
なぜなら、薄皮一枚の下で、「ムクっ」「ポコっ」と胎児が動いているのが分かるんですから。
たとえば胃や腸の手術になると、患部に到達するのに筋層を分け、腹膜を切開し、肥った患者ならば黄色い脂肪の山を掻き分けてやっと辿り着くのですが、この子を取り出すのにそこまでする必要はありません。
それこそ薄皮一枚さっくり開けば、みかんの皮を剥くように子宮に達するのですから、なるほど母体のダメージも少ないし、子供を無事に取り出せれば万々歳です。
あとは、清潔なガーゼで患部をしっかり押さえて、過度な出血を防ぎ、感染にさえ気を付ければ、案外、大丈夫なのではないでか――と。
そんな事をぼんやり考えていたら、先日の検診で、主治医に帝王切開を薦められ、のけぞってしまいました。
確かに帝王切開は、ある意味、経膣(自然)分娩よりも安全で、痛みもありませんから、妊婦にとっても、子供にとっても、負担が少ないといえばそうかもしれません。私のように「初産=○高」の、見るからに危なっかしそうな妊婦に主治医がお薦めされるのも頷ける話です。
でも、その話を聞いた時、本能的に思ったのです。
「だめだよ、痛くないのは」って。
他の病気なら、「痛くないようにして下さ~い」って主治医に懇願しそうなものなのに、こと、お産に限っては、あのウンウン苦しむ自然分娩を自ら望んでいるんですよね。
もちろん、これ以上、身体にメスを入れたくないという気持ちもありますし(もし帝王切開になったら、四度目の手術台)、いくら馴れてきたとはいえ、異国の病院で手術を受けるのは、やっぱり気が引けるもの。
四苦八苦しても自然に産みたいと思うのは、妊婦としての率直な心情でもあります。
が、それ以上に、「痛みを求める」この気持ちは何なのだろう、と。
まるで、その「痛み」が母子の絆であるかのように感じるのは何故だろうと、我ながら不思議でならないのです。
今の医学なら、痛みをかわそうと思えば、いくらでもその方法があるのですが。
20代後半、結婚の「け」の字も考えていなかった頃、オペラやバレエの来日公演に感嘆しながら私はよく思ったものでした。「ああ、もう、一生、このままでいいや」って。
だって、結婚して家庭をもったら、こんな麗しい一時はそうそう味わえなくなる。味わえないどころか、頭ボウボウのオバサンに成り果て、この世にオペラやバレエがあることさえ忘れてしまうかもしれない――。そう考えると、凡庸な幸せがにわかに味気ないものに思えて、時にギリギリの精神状態になってもいいから一人の自由を満喫していたいと、心底願わずにいなかったのです。
が、そうまで気持ちが高揚しても、帰りの電車の中で、幸せそうな母子連れを見ると、途端に自信を無くしたものでした。自分では完璧な理論に支えられているつもりでも、足元からぐらぐら揺さぶられるような動揺を感じ、自分という女が非常に頼りないものに思えて仕方なかったからです。
ある人はその動揺を「本当にこのままでいいのだろうか」という疑問符で追究し、ある人は「私には私の道がある。他人は他人、私は私」と自分に言い聞かすでしょう。中には母子連れの欠点を探し出し、攻撃することで、自尊心を守ろうとする人もあるかもしれません。
が、いずれにせよ、根源的なところで揺さぶりをかけられているのは動かし難い事実。よほど超越した女性でない限り、こういう動揺と無縁で過ごすのは、まずあり得ないのではないでしょうか。
あの人には子供があって、私には子供がないという事実――。
心にぽっかり穴の空いたような気持ち。
自分は人生において何か重大な忘れ物をしかかっているのではないかという不安。
自分は女ではないような劣等感。
自分の本能を無視して、頭で生ききろうとする不自然さや、息苦しいほどの心の強張り。
そういうものが波状攻撃になって押し寄せてくるのを、私は決して無視することができませんでした。
「結婚して子供を持つだけが人生じゃない」「子供があったからって、皆が皆、幸せになれるわけじゃない」――もっともらしい理屈を頭で並べても、目の前にでんとして座っている母子連れを見たら、そんな小賢しい理屈は完膚無きまでに叩きのめされるからです。
そして、なぜ頭で考えることよりも、根源的な部分で感じることの方がより強く自分に作用するのか。完璧な理屈でさえ太刀打ちできないものが女の中にあるのか、我ながら不思議でなりませんでした。
人はそれを「本能」と言うのかもしれません。
だけど「女」であるということ、言い換えれば、「子宮を持っている」ということは、本能程度の言葉で済まされない、何かもっと強烈で、奥深い意味があるように思えてなりません。
そうでなければ、古今東西の女が、子宮を通してこれほどまでに自己のアイデンティティを問うようなことはないと思うのです。
今風に言えば、「子供を産むべきか、否か」みたいな論争です。
その点、男性は「人間としての自分自身」を問うても、「なぜ僕は男なのか。男であるということは、自分にとってどういう意味があるのか」なんて問い掛けはしないでしょう。まして「男は子供を持つべきか」なんて真摯な討論も聞いたことがないですし。
そう考えると、やはり「女」というのは、どんなに頭で立派なことを考えていても、子宮を抜きにして語れないところがあります。
私たちはあくまで子宮を持った生き物であって、男のように「人間」にはなりきれないのです。
「私は子供はいりません」「子供が無くても気にしません」
「子供を産むだけが女の人生ではありません」。
口で言うのは簡単だし、周囲や自分に納得させるのもそう難しいことではないかもしれません。これだけ女性の生き方が多様化すれば、当たり前のことを当たり前に言う方が、古いとか、時代錯誤とかいう言葉で片付けられてしまうからです。
でも、子宮がある限り、理屈や勢いでごまかしきれないものがあるのではないですか。
それを無視して理論武装に走れば、疲れて、頑なになるのは当然のことでしょう。
昔ながらの価値観が崩れた今の時代、女性が素直に自分の心情を吐露するのは、そう容易なことではありません。
負けるまい、舐められるまいとして、必死に背伸びする人の気持ちも分かります。
だけど、女性はもっと女性らしい感情を大事にすればいい。
淋しいなら淋しい、辛いなら辛いと、自分にも周囲にも素直に表現すればいいのです。
周囲に表現するのがはばかられるなら、せめて自分の中だけでも大事に包んであげればいいじゃないですか。
それも「あなた自身」に他ならないのですから。
そういう気持ちを照れたり、隠したり、偽ったりしなくていいような、本当の意味で女性に優しい社会になれば良いのですけど、今は女同士でさえ、見栄を張ったり、突っ張り合ったり、気の置けない時代ですから、なかなか難しいかもしれませんね。
『産みたい』という思い。
それは「お腹が空いたからご飯を食べたい」「眠いから寝たい」という欲求とさして変わりません。母性本能がどうこうではなく、子宮がある限り、女は自然にそれを求めずにいないのだと。
そして、心や身体のどこかでそれを感じたら、頭で理屈を並べる前に、その気持ちを大事にすればいい。
今の自分の状態と、心や身体の求めにギャップを感じたら、少し腰を下ろして、自分が真に求める方向に自然に流れて行けばいいのです。
そこで「今の私はこうだから」「今の風潮では」等々、理屈を並べて逆らうと、あちこちに無理が生じて、これから楽しくなるはずの人生が息苦しい、つまらないものになってしまうのではないでしょうか。
「無理なく生きる」の意味するところは、「自分の感情に素直に」ということです。
そして、心と身体の求めに素直に自分を委ねられるのが、本当の意味で「女性としての自分を尊厳する」ということではないでしょうか。
私の方は、自然分娩になるか帝王切開になるかは、五分五分だそうです。もちろん、赤ちゃんが苦しい思いをするのなら、腹を切ってもらっていいんですけど、やっぱり「自然で」という気持ちは強いですよね。
帝王切開だからといって、決して母子関係が損なわれるという訳ではないのですが、それでも「母親として腹を痛めたい」という気持ちが当たり前のように存在するのが不思議です。
生命に必要のない痛みなら最初から与えられないだろうし、あえて皆がウンウン唸らざるをえないようにできているのは、あの「痛み」の中に、何か必要なものがあるからかもしれませんね。




